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西海神浜の塩業

行徳塩浜と西海神塩浜

塩は人が最も古くから使用してきた調味料だ。その製造方法は時代と共に進歩したが、日本では原料が古代以来海水であることに変わりはなかった。しかし、現在の機械化製塩に至るまでには、製造方法の変遷が何度もある。大規模製塩の場合、江戸時代に入浜塩田法が普及してそれが長く続いた。その後、昭和27年に流下式塩田法が開始されたが、昭和46年に全国一斉にイオン交換樹脂膜法が導入されて、塩田は姿を消すことになる。

 

塩専売法が施行される明治38年(1905)まで、塩の産地は日本各地にあり、東京湾岸にも10数ヶ所の塩浜があった。その中で最大の塩業地帯が行徳周辺だった。

 

船橋市域では江戸時代に西海神浜に塩浜があったが、ここも広義の行徳塩浜の一画だった。行徳塩浜がいつから始まったかについての詳細は分かっていないが、有名な上杉謙信の「敵に塩を送る」話の、後北条氏が甲斐に売るのを禁止した塩は、行徳塩が主体だったという。

江戸の発展で需要増大

しかし、内湾の塩業が大きく発展するのは、徳川家康が江戸に移ってからのこと。やがて家康が幕府を開き、江戸の人口が飛躍的に増加すると、それに伴って塩の需要も増大し、行徳をはじめ内湾の塩浜が俄然活気づいた。

 

その行徳塩浜発展の基礎を作ったのは、ほかならない家康自身であった。家康は慶長18年(1613)から19年(1614)にかけて葛西や両総で鷹狩りを催している。その時に実地に塩浜を見聞したのだろうと想定される。行徳塩業に関する当時の史料は存在しないが、明和6年(1766)に書かれた『塩浜由緒書』によれば、家康はこの地方の塩浜を「将軍御用第一の事、御領地一番の宝と思しめされた」とある。幕府の保護育成は以後も続き、秀忠のときに3千両、家光のときに2千両を与えられたという。

 

元禄15年(1702)に塩浜の検地が行われ、16ヶ村の塩浜合計面積は191町歩余(1町歩は約1ヘクタール)。塩浜年貢は一部を現物で納め、あとは金銭を上納した。

江戸中期になると瀬戸内の塩が大量に江戸に送られるようになり、行徳塩は完全に圧倒される。江戸後期の文化年間の全国の年間製塩高は約500万石、そのうち十州塩が450万石であるのに対し、行徳塩はわずかに3万6千800石にすぎない。それでも行徳塩業が存続できたのは、古積塩という貯蔵法により、運送時に目減りしない塩を売り出したことにあった。江戸後期には、西海神浜の塩浜は10~20町歩になっていた。

行徳周辺の製塩法

江戸内湾の場合、塩田は、満潮海面より低い遠浅部分に造る。外周に堤防を築き、内側は数十に区画し、細い溝をめぐらす。塩田面には砂を散布し、毛細管現象で海水を吸い上げる。さらに海水を何回もまく。天日で蒸発後にその砂を集めて、塩田に等間隔に置いてある桶の上で、ザル越しに海水をかける。そうすることで砂の中の塩分が洗い流されて桶にたまる。その塩水を粘土で作った土船に貯えて濃度を増し、それを煮つめると結晶ができ、そこから苦汁を取り去ると製品としての塩になる。

明治以後の状況

西海神塩田は、明治13年には22町歩7反余となった。その後、三田浜塩田や松遠塩田等の船橋塩田が開かれ、大正中期には面積は約50町歩となり、行徳塩田よりこの塩田の方が生産高が上回った。

 

しかし、昭和4年に当地方の塩田は政府の塩業地整理の対象となり、その幕を閉じた(戦後一時、船橋市営の小規模塩田があった)。


掲載日 令和7年11月20日