江戸時代の農民の負担―検地と年貢―
検地と石高
| 村名 | 五日市村 | 九日市村 | 海神村 | 山野村 | 寺内村 | 高根村 | 上飯山満村 | 古和釜村 | 大神保村 | 藤原新田 |
| 上田 | 12 | 12 | 11 | 11 | 13 | 11 | 15 | 7 | 12 | |
| 中田 | 10 | 10 | 9 | 9 | 10 | 9 | 12 | 5 | 10 | |
| 下田 | 8 | 8 | 7 | 7 | 8 | 7 | 9 | 3 | 8 | 7 |
| 下々田 | 6 | 6 | 5 | 5 | 5 | 1 | 6 | |||
| 悪地 下々田 |
4 | 3 | 4 | |||||||
| 上畑 | 10 | 10 | 9 | 10 | 9 | 7 | 10 | 3 | 7 | |
| 中畑 | 8 | 8 | 7 | 8 | 6.25 | 5 | 8 | 2 | 5 | 5 |
| 下畑 | 6 | 6 | 5 | 6 | 3 | 3 | 6 | 1 | 3 | 4 |
| 下々畑 | 4 | 4 | 3 | 4 | 0.5 | |||||
| 悪地 下々畑 |
3 | 3 | 2 | 3 | ||||||
| 林畑 | 2 | |||||||||
| 新畑 | 1 |
年貢と課役
検地によって定められた村高は、年貢や課役の量を決める基準とされる。
江戸時代の年貢は個人ではなく、村に対して課せられる。仮に村高400石の村で、その年の年貢率が5公5民であれば、200石の玄米をおさめなければならない。村の中での各家ごとの負担量は、原則として検地の結果の持ち高に応じて割り当てられた。
年貢納入の実際は、秋の収穫期近くになると役所(幕府代官所や地頭用所等)から、年貢割付状(わりつけじょう)が村に届けられる。この書類には年貢量とその内訳、納入期限などが書かれてあり、代官や用人の書名・捺印がしてある。これに基づいて村役人(名主・組頭・百姓代)が会議を開き、何日もかけて各家の分担量を決める。水田の分は米、畑・屋敷の分は金銭で納めるのが原則で、これは本途物成(ほんどものなり)と呼ばれる正税である。他に小物成(こものなり)と呼ばれる雑税や、幕領では高掛(たかがかり)三役と呼ばれる税も納めなければならない。
年貢は2~3度に分けて納入するが、普通は名主宅の庭に集め村の責任で指定の場所まで運搬する。年貢を完納すると役所から「年貢皆済(かいさい)目録」が交付される。ところが、村の中で働き手が病気の家や、夜逃げしてしまった家等があると大変である。その分は村の責任で補わなければならないので、五人組の家や親類等が犠牲的に代納しなければならなかった。
農民の負担は年貢だけではなかった。労働力もまた課役とされた。河川の堤防普請や道路普請が一般的なものである。当地方では幕府馬牧場の土手普請も課せられた。その人数や量は村高100石につきいくらいくらと割り当てられるのが普通だった。
以上のように、江戸時代の農民は「士農工商」の順とは裏腹に、年貢・諸役の担い手として最も厳しい生活を強いられていた。しかし、年貢納入が村の連帯責任であったことから、村は一帯との認識が生まれ、それは後々まで日本人の生活意識に、強い影響を残していたといえるだろう。






