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二和・三咲の開墾

千葉県北部には数字や佳字を組み合わせたおもしろい地名がある。初富から十余三(とよみ)までの13の地名がそれである。

 

これらの地名は、すべて台地の上に位置するという共通点がある。元は江戸幕府の馬牧場の場所だったからである。その馬牧場が明治初年に新政府の政策で大部分が開墾され、入植の順序で初富以下の地名が付けられた。

開墾の発端

明治維新によって、旧来の身分制度や経済の仕組みが崩れると、武家屋敷の奉公人、武家関連の商人などに多くの失業者が出た。さらに、幕末に江戸に流入したものの定職につけない者もかなりあり、社会不安の原因とみなされていた。

 

政府はその対策として、明治2年(1869)春、東京府下の失業者や移住希望者を、下総の牧場開墾に従事させることにした。開墾事業は開墾会社(公社的な組織)を作り、政府の貸与金と豪商などの「会社員」の出資金で進められることになり、同2年秋から開始された。

 

開墾予定地は会社員の引受地が決められ、初富は大村五左衛門(麻及び船具問屋)・加太八兵衛(呉服問屋)・湯浅七兵衛(金物問屋)、二和は星野清左衛門(砂糖問屋)、三咲は西村郡司(貿易商)となった。

 

実際の入植は、初富へ10月26日から5陣311戸1,136人、二和へ11月11日から3陣159戸548人、三咲へは11月26日から2陣164戸599人が移住して始まった。

 

三咲以後は、豊四季(柏市)、五香(松戸市)・六実(むつみ・同市)、七栄(ななえ・富里市)、八街(八街市)、九美上(くみあげ・香取市)、十倉(とくら・富里市)、十余一(とよいち・白井市)、十余二(とよふた・柏市)、十余三(成田市・多古町)で、総計は約1,760戸6,500人に上った。

悲惨、開墾地の実態

開墾は始まったものの、入植者の生活は想像以上に過酷であった。水の便や地味が悪く、貸与された農具が足りない上、農業未経験者も多かったためである。風害もひどく、春先に表土と共に種子や作物が吹き飛ばされることもあった。

 

また秋の台風により、長屋が倒壊するという事態が2年続いて起こった。

 

そのために開墾に見切りをつけて逃げ出す者が後を絶たず、開墾に全く精の出ない者もいた。そうした実情から事業に収益の上がらないのを見越した会社は、明治5年5月に表面上解散してしまう。地租改正に伴う地券の交付をひかえて、会社員を地主とするためにとった措置だった。

 

その時点までには、当初の入植者の4分の1以上が退転(死亡者を含む)していたが、会社解散後はその傾向が一層強まる。それは会社解散時に入植者は独立を認められたものの、耕地5反(約0.5ha)と家作地5畝(約450m2)の土地しか与えられず、それまでの飯米支給が打ち切られたため生活が困難となったからである。

再生の原動力は近隣村

会社解散後に、ほとんどの会社員は担当地の半分以上を手中に収めた。数十町歩(1町歩は約1ha)から百数十町歩に及ぶ土地だ。その後、会社員はそれらの土地を小作者に貸して小作料を取るという存在になっていく。そしてその小作者になったのは、東京からの移住者でなく、近隣村々の農家の二・三男などだった。中には土地を買って移住した者もあった。彼らは農業経験もあり、辛抱強く薩摩芋・粟・稗などを作り続ける。その結果、明治中期には畑作農村としての景観が整って、麦や大根の栽培も軌道に乗るようになった。

 

つまり、初富をはじめとする明治開墾地は、当初の入植者の中でわずかに残った人々と、後に周辺農村から移住した人々が築きあげた場所だったのである。


掲載日 令和8年8月15日