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意富比神社の沿革

「意富比」の語義

意富比(おおい・おおひ)神社は、船橋大神宮の名で知られる船橋地方最古最大の神社である。初出の文献は平安初期の『日本三大実録』貞観5年(863)の記事で、「下総国意富比神」とある。これは船橋市域に関する文献としても最古のものである。また平安前期の格式ある神社を記した『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(じんみょうちょう)にも、下総国11社の中に「意富比神社」として載せられ、東国では数少ない「式内社」(しきないしゃ・しきだいしゃ)であった。

この意富比の語義と神格について古くは、「大炊」で食物神とする説があり、戦後は古代豪族オホ氏の氏神とする説などが出された。その後、意富比の古い読みは「おほひ」であり、上代特殊仮名遣いの上から「日」は「比」等で表され、「火」は「肥」等で表される点を考慮し、さらに歴史的にみても意富比神社が古くから太陽信仰と深い関連をもっていたことを考察に加えて、意富比神は「大日神」すなわち“偉大な太陽神”が原義であるとする説(三橋健「意富比神考」)が登場する。つまり、中世から幕末までは一般に「船橋神明」と称され、主祭神を天照大神とする意富比神社も、原初は古代のこの地方最大の太陽神であったとするもので、現時点では有力である。

伊勢神宮との関係

前期のように、当社は中世以降一般には船橋天照大神宮や船橋神明と呼ばれることが多かった。神明とは伊勢神宮を分祀した神社のことである。

すると、古代には当地方最有力の太陽神であった意富比神が、中世のある時期に伊勢神宮に同化したと考えられるが、そのあらすじは次のように想定される。

―平安末期に近い保延4年(1138)に夏見を中心とする一帯が、伊勢神宮の荘園「夏見御厨(みくりや)」となった。実際には当地から伊勢内宮へ白布を貢納した。そうした関係から、当地には伊勢神宮が分祀され「神明社」ができたが、その祭神は言うまでもなく最高の太陽神である天照大神であった。やがて地元の偉大な太陽神は、同じ太陽神である神明社に同化して船橋神明となり、船橋大神宮と称されるようにもなった。-

「船橋殿」とは誰か

多古町顕実寺の古文書に、応永4年(1397)の「日尊譲状」という所領の譲渡証文があり、文中に「船橋殿」という文言が見える。この船橋殿については未詳であるが、時代が下がった天正6年(1578)の「高城胤辰禁制」(『舟橋文書』)にも「船橋殿」が見え、これは意富比神社神主富氏をさしている。すると前者も神主をさしている可能性が高いと思われ、意富比神社の神主は室町初期には、小規模ながら在地領主としての一面を有していたと想定される。

江戸時代以後の変遷

近世に入ると、江戸に移った徳川家康は翌天正19年(1591)に領地内の有力寺社に寺社領の寄進をし、船橋神明にも50石の土地を寄進した。裕福な農家5軒分ほどの耕地である。

以後、幕末まで当社は将軍家とつながりを持ち、本殿の右側に家康・秀忠等を祀る常磐神社が建てられた。また江戸中期以降は「関東一之宮」を自称したため、伊勢神宮と紛議になったこともある。

いずれにせよ、江戸時代には船橋地方随一の名所であり、遊山の旅人はたいてい参詣した。ところが、明治直前の慶応4年(1868)閏4月に戊辰戦争の局地戦が房総で起こった際、当社が幕府方脱走兵の一拠点とされたため、官軍方の砲撃で焼失するという災難にあってしまった。

明治に入り、当初は仮社殿であったが、間もなく正式に再建された。また、明治初期に新政府の政策として、全国の神社の社格が決められたとき、当社は現市域唯一の「県社」とされた(普通、村の鎮守は「村社」であった)。

文化財と行事

境内の灯明台は明治13年(1880)に完成した和洋折衷の建物で、現存の中では国内最大級の民間灯台といわれ、千葉県指定有形民俗文化財である。

祭礼は10月19日・20日に行われ、特に奉納の素人相撲は“船橋のけんか相撲”として、関東一円に名を知られていた。また、例大祭(10月20日)をはじめ、正月三が日・節分・12月二の酉に演じられる神楽は、船橋市指定無形民俗文化財である。
下総舟橋大神宮(「諸国名所百景」より)
下総舟橋大神宮(「諸国名所百景」より)

掲載日 令和3年6月1日 更新日 令和3年6月2日