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トップ歴史放談船橋の伝説> 藤原師経の配流

藤原師経の配流

平安時代末期の治承年間(1170年代)、藤原師経公という公家が讒言(ざんげん)にあって、下総の三山に流されることになってしまった。

師経公は一族家来とともに、相模の国から船に分乗し、内湾を横断して下総を目ざした。ところが折から海上は大荒れで、師経一行は鷺沼(習志野市)に着いたが、姉君の乗った船は行方不明となってしまった。

そこで、師経公は里人に烽火を上げさせたりしたが、姉君の船は一向に見当たらず、一同は落胆した。ところが、姉君の船は、はるかに早く上総の海岸に着いていたのであった。そこから、上総の土地は姉が先(崎)と呼ばれるようになったという。

師経一行は鷺沼城主、鷺沼源太光則の城内に招かれて歓待を受けた後、姉君の探索を頼んで、三山を目ざして出発した。折しも季節は厳冬で雪が降りだし、一行が三山に着く頃には、日は全く暮れようとしていた。ところが、それを聞きつけた里人は雪をいとわず、松明を灯して出迎えた。後に、そのことをしのんで、11月13日の夜の焚上と呼ばれる行事が起こったという。

その後、師経公は姉君と無事再会し、また、千葉氏から三山・田喜野井・藤崎の地を与えられ、配流の身ながらも平穏の日を送った。そして三山明神(二宮神社)に先祖の藤原時平公を合祠し、日夜敬神につとめた。

後に、師経公の故事から、姉ケ崎神社は三山明神の姉だといわれるようになったと伝えられる。

掲載日 令和3年11月1日