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トップ歴史放談船橋の伝説> 血洗い川

血洗い川

かつての山野村と西海神村の境(西船一丁目と海神六丁目境)を流れる小川は、現在は暗渠となってしまっているが、昔は洗川、血洗川、太刀洗川などと呼ばれ、その名の由来について次のような話を伝えていた。

鎌倉時代、源頼朝が征夷大将軍になると、その勢威に伏さない者はなく、草木もなびかせるほどであった。しかし、その時、意富比神社(船橋大神宮)の神官だけは、自分は天皇から直接任命を受けた身であるから、武門の頼朝の臣下ではないと、幕府からたびたび催促されても応じなかった。そのため、頼朝はたいへん怒って、神社の管理下にあった船橋六郷の地を、御家人の葛西三郎清重に与えてしまった。

そこで、葛西清重は兵をひきつれ、船橋の地へ入ろうとしたが、神官と六郷の農民達は、今の西船方面で神輿を前にすえて防戦し容易に屈しなかった。争いは長く続き、いつ果てるとも知れないありさまとなってしまった。そのため、農民達の苦難を思いやった神官は、一人で責任を負って神輿の前で切腹して果てた。その時にこの小川で神輿についた血を洗ったので、以来この川は血洗川と呼ばれるようになったという。

もっとも、別説では頼朝の先祖の源頼義が、この小川で太刀を洗ったから、太刀洗川と呼ばれるようになったという話もある。

掲載日 令和3年12月1日