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中世の船橋港

鎌倉時代以降、鎌倉が東国の中心地になると各地から鎌倉に至る街道の整備が行われるが、それ以上に東京湾を船で往来する海上交通が発達した。その傾向は、仁治2年(1241)に鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶための朝比奈切通しが完成すると、特に顕著になる。六浦道の完成によって、内湾各地から鎌倉へ向かうには六浦までは船、後は短距離を陸路で容易に行けるようになったのである。このルートは危険な外洋を通らずに済むので、海上交通の発達と港の繁栄をもたらした。房総各地に残る「鎌倉道」も、多くは鎌倉へ向かう港までの道路であることが多いようである。

海老川河口の船橋港もそうした中世の港のひとつであり、鎌倉道の発着点であったと考えらえる。中世の船橋港に関する史料は少ないが、次のような興味深いものがある。

1つは茨城県稲敷市逢善寺(ほうぜんじ)の記録『檀那門跡相承資(だんなもんぜきそうしょうし)』というもので、これは下総船橋に住む右京律師澄賢(うきょうのりつしちょうけん)という僧が、法流継承の資格を得るために、祈とうをし百日の護摩を修した後、船3艘に贈進の品物を積んで船橋から浅草の寺に向かった旨の文面がある。康暦2年(1380)付けの内容である。

2つめは松戸市本土寺(ほんどじ)の『本土寺過去帳』で、これには「左衛門太郎フナハシ海賊ニテ被打(うたる)」の記事がある。船橋の海賊に殺害されたと解釈されている文言である。年月の記載はないが、ある研究書によると、文明からの明応の頃(1469~1501年)と想定されるとのことである。ここに見られるような海賊とは、平常は商品取引や漁業等にも従事し、時には略奪行為もするというものであったと考えられる。

3つめは個人所蔵の「北条家印判状」で、弘治3年(1557)10月に、船橋の津で兵糧を積み込むようにとの内容である。

以上の中世の船橋港の位置については異説もある。当時の港は海老川河口ではなく、潟のようになっていた天沼の西側であったとする説である。すなわち、現在のJR船橋駅北方の天沼公園西側あたりと見る説である。発掘調査によって中世の汀線が判明すれば、この説も有力かもしれない。

船橋大神宮周辺や本町の一部は、早くから集落が成立し、室町時代前期には神保郷内の村々より発達した地区であったと考えられるが、史料が少ないため、その解明は今後の考古学的成果によらなければならない。


掲載日 令和4年2月1日