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トップ歴史放談船橋の伝説> 酒山砦の落城

酒山砦の落城

かつての習志野原の一角、坪井の酒山集落に接する所(習志野台団地の東北隅)には、戦国時代に砦があったといい、次のような悲話を伝えている。

戦国時代の弘治年間(1550年代)といえば、武田信玄、上杉謙信の川中島合戦でも知られるように、群雄割拠動乱の時代であった。この頃、酒山砦には、後藤左近亟(さこんのじょう)源頼勝という武将がいて、四隣を征服して勢力を振っていた。頼勝は、関東の過半を制さんとする小田原の北条氏に属していたという。

当時、房総半島南部には里見氏が勢力を張り、北条氏との対立をくり返していた。

永禄年間(1560年代)にいたり、関東制圧をねらう北条氏に対し、里見氏も房総半島北部への進出を企て、遠く越後の謙信と結んで機をうかがっていた。

永禄6年(1563)暮れ、信玄と結んだ北条氏康が上州を犯し始めたため、謙信はそれを退散せんものと、即刻上州に進撃した。ところが信玄と氏康はすかさず兵をひいてしまったので、謙信は里見義弘に連絡し、南北両方から北条軍をはさみうちにする戦術をとろうとした。

そこで里見氏は、かつての国府台合戦の雪辱を果たす絶好の機会として、南房総の兵数千を率いて北条方に属している城砦を攻略しつつ、国府台へと軍を進めた。その時、里見の第一の部将・大多喜城主、正木大膳時綱の軍は、臼井(佐倉市)、米本、萱田、大和田、高津(八千代市)の諸城を攻略し、疾風の勢いで酒山砦に押し寄せてきた。

酒山砦は、守兵数百に足らない小さな城であったが、南・西・北の三方は深い沼をめぐらし、東は木柵をいく重にも築き立てた要害で、正木軍が何度か攻めたてても落とすことができなかった。

そのため、正木時綱は夜間に砦を火攻めすることにし、風上から火矢を放って攻めさせた。すると火はたちまち砦内に燃え広がったので、城主頼勝は意を決し、砦内の残兵とともに敵中に切って出た。しかし、衆寡敵せず、奮戦の後、一兵も残さず討死してしまった。

この砦の跡と思われる遺構は、四角い土塁で囲まれており、団地造成の頃まで残っていたという。

掲載日 令和4年10月1日