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船橋地方の墓石の歴史

船橋地方の墓石の歴史

船橋地方で墓石が普及し始めるのは、江戸初期の寛永年間である。

ただし、中世の板碑の中にも、広義の意味の墓標がある。法宣庵(上山町)の題目板碑に、「為沙弥妙見也敬白」「延文六辛丑三月九日」の刻文がある等の例である。また、県指定文化財として知られる宮本西福寺の宝篋印塔は、塔下から火葬骨の入った壺が発見されており、これも供養塔ではあるが、墓塔としての機能も合わせ持つものと言えよう。

しかし、ここでは一般に墓石として認識されている、江戸時代以降の墓石について述べることとする。
 

五輪塔・宝篋印塔

五輪塔は鎌倉時代以降、石塔の主流として造立されてきたが、江戸時代の前期途中からは石塔の中心からはずれる。江戸時代の五輪塔には、2つの流れがあるようである。1つは大型で中世土豪の流れをひく豪農や、大寺の僧侶の墓として造立されているもので、西福寺(宮本)の住職の墓の一部や西光院(大穴)墓地等に見られる。いま1つは、上層農民の墓であろうと思われるもので、江戸前期に造立された小型で地輪部が縦長の一石造りのものである。宝成寺(西船)・正延寺(西船)・大覚院(海神)・小室町畑脇墓地・神宮寺(三山)・長福寺(八木ケ谷)にあり、1620~60年代頃に造立されている。

宝篋印塔も中世石塔の主流であったが、江戸時代に入ると形態に大きな変化が起こり、鎌倉から室町中期の塔とは似ても似つかない形となる。宝成寺の成瀬之成夫人の墓(寛永11・1634)にもそのことがうかがえる。宝篋印塔も江戸前期にやや小型の塔がかなり造立されているが、一石造りのものが少ないので、崩れた後で不定型に積み上げられ、完形のものはほとんど見当たらない。その内、寛永期のものは多聞寺(東中山)・正延寺・大覚院・本行寺(旭町)・長福寺(夏見)・東光寺(古和釜)・長福寺(八木ケ谷)・西福寺(大神保町)等にある。
 

板碑型墓石

中世を通じて大量に造立された板碑は、戦国末にほとんど姿を消すが、この板碑型墓石にその名残をとどめている。この型の墓石は最も早くから普及し、寛永初期(1620~30年代)に現れ、寛文から元禄年間(1660年代~90年代)に最盛期となり、享保年間(1720年代)に衰退に向かう。その数は多量で、中に板碑型連碑と呼ばれる夫婦の墓もある。また、この型の墓石は宗派を問わず造立されている。市内の古寺境内、農村部の墓地にこの型の寛永年間のものが数十基見られる。
 

石仏墓石

石仏墓標・光背型墓石等とも言い、如来像や菩薩像を彫った墓石である。舟型光背の前面に像を彫り出したものが大半を占めるが、角柱型に小像を彫ったものもある。寛永年間後半頃から出現し、幕末近くまで造立されるが、時代が下がると成人の墓には石仏墓石はほとんどなくなり、子どもの墓石(地蔵像)の一部に見られるのみとなる。

像容別には如来では阿弥陀如来と大日如来、菩薩では如意輪観音・聖観音・地蔵菩薩が多く、ほかに釈迦如来が若干あり、聖観音と如意輪観音の複合型もある。像を選択する基準は定かではないが、観音では成人男性は聖観音、成人女性は如意輪観音の場合が多い、一石に二像が並ぶ夫婦の墓では夫は阿弥陀如来か聖観音、妻は如意輪観音の例が多い。地蔵像は大型のものは成人、小像は子どもの墓である場合がほとんどである。宗派別では阿弥陀如来は浄土宗系、大日如来は密教系の寺院や墓地に多い。ただし、日蓮宗系は成人の石仏墓石は少なく、釈迦如来像のものが多少みられる程度である。子どもの墓石には宗派を問わず地蔵像が圧倒的に多い。

また、享保年間頃までは各像とも大型のものが見られ、彫りも優れているが、時代が下ると小型で粗製のものも目につくようになる。特に子どもの地蔵菩薩には、像高20~30cmぐらいの粗末なものもある。これは石工の腕の低下もさることながら、安価な既製品が出回ったことによるものと思われる。つまり、一般庶民にも墓石が買えるようになった結果の現象だと考えられるのである。

なお、先に一部述べたが石仏墓石は宗派によって造立数がかなり異なる。真言宗・天台宗・曹洞宗・浄土宗の墓地には多く、日蓮宗・浄土真宗の墓地では少ない。
 

丸頭型墓石

櫛型、鏡型、箱型等とも言う。背面の削り方に荒削りで隅丸のものと、平にするものの二通りある。享保年間頃から文化年間頃までの、かなり長期にわたって造立され、特に寛延から寛政頃(18世紀中葉から後半)に盛行した。また、背面荒削りの方が早く出現した。なお、丸頭型でも横に広くて、かまぼこの断面のような形で何人もの戒名を刻んだものが、江戸後期に多少造立されている。
 

駒型墓石

将棋の駒を縦長にしたような形の墓石で、前面を縁を残して彫り窪めたものと、そうでないものがある。この型の墓石はそう多くはないが、江戸中期から後期前半に多少造立されている。
 

柱状型墓石

角柱型墓石とも言い、尖頭型(山伏型・兜巾型)・台頭型(重頭型・丸兜巾型)・角頭型(平頂型)等があり、笠付型(位牌型)もこの型に入る。

尖頭型は享保年間頃に出現するが、盛行期は寛政から化政期(18世紀末から19世紀前期)である。台頭型は天保年間頃から盛行し、幕末から明治まで墓石の主流をなした。笠付型は江戸前期から幕末まで、長期にわたって造立されたが数は少ない。大型で立派なものが多い。角頭型は明治年間に出現し、大正以後盛行するようになり、現代の墓石の主流となっている。
 

無縫塔

その形から卵塔とも呼ばれ、鎌倉時代に禅宗と共に中国から伝わった形式である。元来は禅宗の僧侶の墓であったが、後には禅宗以外でも僧侶の墓として造立された。江戸前期以降は、塔上部の卵形の部分が縦長になる傾向がある。普通は寺の奥等の、一段高い所に立てられている。
 

自然石型

自然石型と言っても、自然石そのものに文字を刻んだものは稀で、多くは扁平で不定型の石に文字を刻んでいる。幕末頃の学者等の墓として造立されたものもあるが、数はごく少なく、明治以後に多少見られる。この形式は墓石よりも記念碑・信仰碑・文学碑などに多い。
 

その他の型

墓石には前述のもの以外にも、石仏丸彫型・層塔・笠付丸柱型・石幢型・石祠型等がある。石祠型は神道系の墓で、神宮寺(三山)にいくつかある。その他の型のものは市域ではごく稀にしか見られない。また、最近は洋型の墓石も造立されている。
 

掲載日 令和4年11月1日