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将軍家の鷹場と鹿(しし)狩り

将軍家の鷹場と鹿(しし)狩り

将軍家鷹狩りと鷹場

江戸時代、歴代の将軍が催した鷹狩りや鹿狩りは、ただ単に将軍の娯楽だったわけではなく、人々の生活とも密接なかかわりを持っていた。特に鷹狩り関係の地域は鷹場と呼ばれ、様々な制度によって住民の日常生活を規制していた。

江戸時代の鷹狩りは、将軍や大名の特権であった。特に江戸周辺の鷹狩りは将軍家が独占し、ほかには将軍が許可した将軍一族と、有力大名しか行うことができなかった。江戸からはほぼ5里以内の地は御拳場(おこぶしば)と称して、将軍自らが鷹狩りを行う場所で、その一部に御借場(おかりば)という将軍家一族に許可された場所も含まれていた。御拳場の外側には、御捉飼場(おとらえかいば)と称して、幕府の役人である鷹匠が鷹の訓練をする場所があった。つまり鷹場というのは御拳場、御捉飼場、御借場の総称なのである。
 

船橋と鷹場

船橋市域の鷹場について見ると、時代によって多少の変化はあるものの、市西部の西海神~小栗原(旧葛飾町)一帯は御拳場で、ここは一時徳川御三卿の一ツ橋、田安両家の御借場の時もあった。一方、高根、東・西夏見、藤原、上山などは御捉飼場であり、史料上は未確認であるが、五日市、九日市や上・下飯山満等の旧二宮地区も御捉飼場であったと推定されている。
 

鷹場村々の負担

鷹場の村々は、鷹狩りや訓練の時には人的、経済的な負担を負った。まず市域の御拳場では、将軍の鷹狩りはなかったようであるが、鳥見役(とりみやく)と呼ばれる役人の来村の際には、人足や経費を負担した。御捉飼場では訓練の時や野廻り役という役人の来村の際に、同様の負担を負った。

それにもまして鷹場では、日常の生活に種々の規制が加えられていた。雁・魚等を捕らないこと。稲刈りの後の田に水を張らないこと。病鳥や落鳥があったら役人に届け出ること。鷹の訓練の時には犬をつなぎ、口つきのない馬に乗らないこと。家作や道路の普請も鷹場役人に届け出ること。訓練の時には川等に小橋をかけ、御鷹御用の者以外は使用させないこと(この橋を鷹匠橋という)。訓練の時にはかかしを取り払っておくこと。芝居や開帳など人が大勢集まるような行事をしないこと―など実に細かい規制であった。

船橋市域に限らず、江戸から10里内外の村々は、この鷹場の負担と規制に少なからず悩まされていた。しかしそのことは、鷹場制度そのものが、将軍の鷹狩りのためであった以上に、農民統制の役割を担っていたのであるから、当然といえば当然だった。
 

小金原の将軍家鹿狩り

将軍家の狩りの中で最も規模が大きく、軍事訓練の色彩が濃いのが小金原鹿狩りであった。小金原は幕府馬牧の広がる広大な原野である。この小金原で、江戸中期以後4回にわたって将軍家の鹿狩りが催された。

第1、2回の鹿狩りは8代将軍吉宗によって、享保10、11年(1725、6年)に催された。鹿狩りの動機としては、ひとつには太平に馴れた幕臣の武道鍛錬のためといわれ、また牧場周辺に繁殖して田畑を荒らす鳥獣の駆除のためであるともいわれている。第1回の時には、正月末に狩りの触れが出され、将軍の御立場(おたちば)は中野牧の鳥井戸前(現松戸市)と決まった。狩りの準備としては、獲物や人足の通り道のため水田や川に板橋をかけたり、野馬土手の一部を崩したりし、本番の狩りには3日前から獲物を追うために、周辺村々から1万人に上る人足が駆り出された。狩りは3月末に将軍が見守る中、人足に追われた獲物が、矢来(やらい)を巡らして網を張った狩り場に逃げ込むのを馬上から槍で突いたり、地上で乗り倒したりするものであった。この時の獲物数は鹿800余り、猪3、狼1、雉子10などであった。

第3回は11代将軍家斉によって寛政7年(1795年)に催された。1、2回に比べ、はるかに大規模となり、東は銚子、南は上総大多喜、西は江戸川、北は利根川から獲物を追いたて、人足も10万人に上るほどであった。獲物数は鹿130、猪6、狸1、狐4、兎8、雉子2と記されている。

第4回は、12代将軍家慶によって嘉永2年(1849年)に催された。規模・方法は前回に準じたが、今回は台地の開発が進んだせいか獲物が少なく、狩り用に前もって捕えた獲物まで放して行った。

これらの鹿狩りは、村々の負担でもあったが、鷹狩りと違って見物が許されたので、当日は弁当持参の見物人が何万人も押しかけて一大見物だったという。

[小金原家斎公御鹿狩之一覧図]寛政7年

[小金原家斎公御鹿狩之一覧図]寛政7年船橋市西図書館所蔵
 


掲載日 令和5年2月1日