このページの本文へ移動
色合い 標準 青 黄 黒
文字サイズ 標準 拡大 縮小
RSS
トップ歴史放談船橋の歴史> 船橋周辺の主な街道

船橋周辺の主な街道

船橋市は、現在千葉県における交通の要所の一つであるが、江戸時代においても江戸と房総・常陸東南部をつなぐ交通の要衝であった。船橋において佐倉・成田・鹿島方面への道(1)と、千葉・木更津・上総内陸方面への道(2)が分離し、前原新田で(1)と東金方面への道(3)が分岐する。また行徳から来る道(4)は海神で(1)に合流する。さらに木下(印西市)から高石神(市川市)に至る道(5)が畑作農村地帯を通過していた。それぞれの道の概要は次のとおりである。

(1)佐倉道

佐倉街道。幕府の決めた道筋は新宿(葛飾区)で水戸道と分かれ、小岩・市川関所~八幡~船橋~大和田~臼井~佐倉で、その先は酒々井~寺台~成田へと続く。この内、佐倉と成田は継立場ではなかった。下総国内では水戸街道と並び、最も交通量が多い道であったと想定される。
 
この道の下総国分は近世初期には成立しており、文禄4年(1595)に下総国岡飯田(香取郡小見川町)から江戸の徳川家へ献上する柑子を運ぶ道筋を示した「徳川家奉行連署状」には次のようにある。「(前略)さくらうす井大わたふなはしやわた市川かさいあさくさ」。この道筋は後の佐倉道と同じであるが、船橋市域の具体的な道筋については未確定である。というのはこの時代にはまだ御成街道は造成されておらず、前原新田・滝台新田も成立していなかったからである。つまり、大和田(八千代市)から現船橋市宮本・本町に至る道筋は、元和年間(1610年代後半)からの、前原新田で御成街道に合流するルートではなかった可能性が高いのである。
 
佐倉道は江戸時代中期以降は成田道(成田街道)と呼ばれることが多かった。成田山新勝寺への参詣客が最も利用する道となったためである。

(2)上総道

房総往還・木更津街道・房州道などともいう。意富比神社(船橋大神宮)下で佐倉道から分岐し、馬加~検見川~曽我野~浜野等を経由して木更津に達する。さらに南進すると館山に至る。ただし、木更津周辺や房州方面の人々が江戸へ往来する場合は、木更津から江戸へ「木更津船」と呼ばれる船便を利用する場合が多かったと想定される。

(3)御成街道

東金街道ともいう。前原新田で佐倉道から分岐し、犢橋~金親~中田を経て東金に至る。この街道は徳川家康の命をうけた佐倉城主土井利勝が、道沿いにあたる村々に突貫工事で造成させたと伝えられる道である。伝承では、三日三晩でできたとか、「一夜街道」というとか、あるいは夜間工事で直線の道を造るために提灯を下げたので提灯松という名が残っているとかいう話もある。この短期間造成説が現時点では一般に流布している(本保弘文『房総の道東金御成街道』他)。しかし利勝は相模中原(相模原市)で慶長18年(1613)12月12日夜に命を受けたとされるのだが、家康は翌年1月7日には江戸城を出立し、その夜葛西へ宿泊、8日に千葉に到着、9日に東金に至っている(「駿府記」)。この20日余りの間に、ルートを決め、人足の割り振りをし、原野・山林を切り開いて道を造成するのは不可能とし、御成街道の造成は慶長19年から翌元和元年11月までの間の、1年ほどとする説(『習志野市史第1巻通史編』他)もある。

(4)行徳道

行徳街道。行徳(本行徳)から船橋海神までの7キロメートル足らずの道であるが、江戸時代から明治前半にかけてはかなり賑わいをみせた道であった。この道は江戸からの水運と密接な関連を持って発達した道で、江戸の人々の成田山参詣とも深い係わりがある。日本橋周辺の人が佐倉・成田方面に行く場合、日本橋のすぐ下流の行徳河岸から船(行徳船・長渡船)に乗り、小名木川・新川の人工河川を通り、江戸川を少しさかのぼって、行徳で下船すると、速くて楽な行程であったのである。多少出費にはなるが、多くの人がこのコースを選んだという。早く船橋の宿に着きたければ行徳道を歩くと、海神で佐倉道に合流するのであるが、余裕があると、本行徳から葛飾八幡宮や中山法華経寺に参詣する場合もあった(行徳~八幡の道も行徳道と呼んだ)。

(5)木下道

木下街道。江戸時代には銚子道(銚子海道)や鹿島道などと呼ばれる場合が多かったと想定される。本行徳~八幡~鎌ケ谷~白井~大森~木下が道筋である。この道は交通史の上でいう連水陸路で、東京湾の海上交通路と利根川の河川交通路を結ぶ道路であった。この連水陸路の起源については、17世紀半ばの利根川東遷以前の可能性も指摘されている。(『千葉県歴史の道調査報告書 6 木下街道・なま道』)。江戸時代前期には、銚子や霞ケ浦の鮮魚を江戸まで急送する「なま道」であったが、正徳6年(1716)の鮮魚輸送をめぐる争論に鎌ケ谷村が敗れてからは、なま道の主流は布佐村(我孫子市)と松戸宿を結ぶ道筋に移っていった。また木下道は、貞享4年(1687)に常陸鹿島へ旅する松尾芭蕉が通行したことで知られる。

佐倉道(成田道)の変遷と発達

佐倉道は幕府の定めた名称は水戸佐倉道で、五街道の一つ日光道中に付属する主要な道であった。しかし、この街道は道筋の点、名称の点、近道のこと等で複雑な歴史と内容を持つ街道であった。
 
幕府官撰の地誌で文政11年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』の葛飾郡の中に、「元佐倉道」という言葉がしばしば登場する。この元佐倉道は東京都内の道筋は、上記水戸佐倉道とは全く異なる道であった。水戸佐倉道は千住(足立区)までは日光道中と同一で、千住から新宿までは水戸佐倉道が同一、新宿で分岐して水戸道は松戸へ、佐倉道は小岩へ至る。一方の元佐倉道は風土記稿に「又元佐倉道とて本所竪川通り亀戸逆井渡を渉り、小松川村小名四ツ又と云処より西路に別れ、左して下総国市川村に達す、右すれば今井村に出て、行徳に達す」とある。江戸川区内を斜めに南西から北東に横断する道で、現在の千葉街道の前身にあたる。この道は幕府が五街道を確定する前の江戸前期には、主要街道の一つとして数えられていた。しかし、その後幕府の方針が変わり、上記のように武蔵国内では佐倉道と水戸道を合併した道として捉えることにされ、また日光道中に付属する道とされたのである。その転換の時期は諸説あるが、元禄3年(1690)以前とする説が有力である。
 
水戸佐倉道となって以来の、佐倉道の公式道筋は新宿~小岩・市川関所~八幡宿~船橋村~大和田村~臼井村~佐倉城下であったが、元禄年間以降成田山新勝寺への参詣客が多くなり、佐倉が単なる通過地点となってからは、下総国部分は成田道や成田街道と称されることが多くなった。ただし、後述のように武蔵国内の佐倉道は成田山参詣者が少なかったので、一般には依然佐倉道と称されていた。

大名の参勤交代の道筋

佐倉藩主等の参勤交代は、参勤時は千住宿を通る公式ルートを通行するのが原則であったが、再三佐倉藩が元佐倉道の通行を願った結果、参勤時も夜になる前に江戸に到着できれば認めるという方針に変わった(帰国時は以前から認可)。夜中通行による千住宿の負担増加を考慮したものといわれる。しかし、大義名分を守るために藩主の交替時の往路には千住通りを通行するようにと命じている。

江戸庶民の成田山参詣と道筋

一方、江戸市中の人々が下総や常陸東南部や上総北部等に行く場合は、かなり自由に道筋を選ぶことができた。江戸市中から成田山参詣(千葉方面や九十九里方面に行く場合も船橋までは共通)をしたい時、いく通りもの近道があったのである。日本橋周辺は、行徳道の項で述べたように船を使うルートが便利であった。浅草周辺は竹町(台東区)の渡しで隅田川を渡り、さらに平井の渡しを渡り、四股(江戸川区)で元佐倉道に合流する。また、両者の間の竪川通り(墨田区)から逆井の渡しを渡り、元佐倉道へ至る道筋もあり、その他にもいくつかの道筋があった。それらのいずれの道筋を来ても、船橋市域で合流した。

掲載日 令和3年2月9日 更新日 令和3年2月10日