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戊辰市川・船橋戦争

戦闘までの経緯

慶応4年(1868)は途中の9月に明治に改元されるが、改元前の閏4月3日(※注1)に、船橋地方は未曽有の大事件に巻き込まれた。戊辰戦争の局地戦が船橋周辺で起こり、中心街の大半が兵火で焼失させられてしまったのである。
 
この戦闘は市川・船橋戦争と称され、4月11日の江戸城明け渡しと、5月15日の彰義隊の上野戦争との中間の時点で起こった。ここで、その前史を簡単に振り返ってみる。
 
慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜が大政奉還と位記返上を奏上して、260年余続いた徳川幕府はその幕を閉じた。その後、倒幕派と公武合体派との主導権争いがあったが、最終的には倒幕派が実権を握り、徳川慶喜の辞官、領土没収を命じた。一時は薩長との対決を意図した慶喜も4年1月上旬の鳥羽・伏見の戦いで完敗すると、まもなく恭順の意を示して蟄居謹慎した。
 
ところが、旧旗本・御家人の中にはそれを潔しとせず、あくまで薩長等と戦うべきだという者も多かった。また奥羽地方には会津藩を中心に反新政府の藩が多く、それら幕府方と新政府方(官軍)との戦争が各地で勃発したのである。
 
4月11日に江戸城が明け渡しと決まると、それを不服とする旧幕府兵の一部は江戸を脱出した(彼等は脱走方と呼ばれた)。その中には、市川・船橋戦争の主役となった旧撤兵頭(さんぺいがしら)福田道直に率いられた撤兵5大隊もあった。福田らはまもなく真里谷(木更津市)に本拠を置いて、義軍府と称した。撤兵は軽歩兵で、英国エンフィールド銃を主な武器とし、1大隊は300~400人ほどであった。
 
4月下旬になると、そのうち第一~第三大隊が北上を開始した。北関東方面への援軍のためとも、江戸入りを狙ったためともいう。
 
4月23日ごろには、江原鋳三郎率いる第一大隊が船橋に入り、28日ごろに中山法華経寺に転進し、船橋へは第二大隊が布陣した。一方、それを阻止しようとする官軍方は岡山藩、福岡藩、津藩(三重県)、佐土原藩(宮崎県)の兵の一部であったが、各地への応援で出兵しているため、義軍府に対する兵力は不十分であった。
 
25日ごろから官軍方は脱走方に再三武器の引き渡しを要求したが、脱走方が応じないため、閏4月3日を期して武力行使と決した。ところが、それを察知した脱走方が先手攻撃を計画して、形勢は刻一刻戦闘に傾いていった。
 
※注1 陰暦では1か月の平均日数が29.5なので、19年に7回閏月を入れて(その年は13か月)季節と合うようにしていた。

八幡・市川の戦闘

最初の戦闘は3日未明に、第一大隊第二中隊が八幡の岡山藩陣地を奇襲して始まった。岡山藩兵は2小隊の兵力のみなので、援軍を待って必死に戦ったが苦戦をしいられた。しばらくして津藩の1小隊が来援したが、その間に脱走方はほかの中隊も駆け付けたので兵力の差は大きく、官軍方は真間山・市川方面への退却を余儀なくされた。
 
市川へ退却した岡山藩兵は疲労が激しいので、江戸川西岸から進軍して来た津藩の2小隊と交替した。そこへ岡山兵を追って進撃して来た江原大隊が迫り、激しい撃ち合いとなった。津藩側は大砲2門を有していて、一時は江原隊側を後退させたようである。しかし、市川辺での兵力数にまさる江原隊側は態勢を立て直し、津藩兵を江戸川西岸へ追いやった。この時、船に積んだ大砲を脱走方が奪い取っている。しかし、脱走方の優位はここまでで、江原隊の中核が中山へ引き揚げて間もなく、市川方面は官軍方が制圧した。戦場となった市川では兵火によって当時の戸数の過半、127軒が焼失しているが、この兵火については官軍方の放火と記した記録と脱走方の放火と記した記録の双方があり、確定できない。

鎌ケ谷・馬込周辺の戦闘

八幡での開戦直後に、馬込沢台でも戦闘が始まった。鎌ケ谷にいた佐土原藩(100人・126人・200人の各説がある)と、船橋からくり出した第二大隊の一部が衝突したものである。八幡の銃声を聞いた佐土原方が、船橋へ出撃する合図だと誤認して出発したのを、脱走方が待ち伏せ攻撃したのである。両軍の撃ち合いとなったが、佐土原方が脱走方を追い返した。
 
その後、佐土原藩側が兵を整えて情勢を探ったところ、鎌ケ谷大新田方面に脱走方がかなりいるとわかり、兵をめぐらしてこれと戦った。この戦いは佐土原藩の記録によれば、敵兵が多いので苦戦したが、臼砲の威力でようやく敵を追い払うことができたという。しかし、実際は脱走方の兵もあまり多くなかったらしい。
 
脱走側は夏見まで退却したが佐土原側の追撃を受け、さらに船橋宿まで退いた。この時、夏見の長福寺と薬王寺及び周辺民家30軒近くが佐土原兵に焼かれてしまった。

船橋宿の戦闘と兵火

馬込・夏見方面で勝利した佐土原兵は、一気に船橋を攻略しようと進撃し、三手に分かれて第二大隊の拠点船橋大神宮を目指した。一手は大通り(本町通り)から、一手はその北側から、一手は漁師町の方からである。大通り近辺では市街戦となり、脱走方の一部は民家ややぶなどから射撃するなどして頑強に抵抗した。しかし、佐土原兵が通り中央あたりから大神宮へ大砲を撃ち込むと神社はたちまち火につつまれ、脱走側は拠点を失った。続いて佐土原兵は敵を焼き出すべく民家に放火した。その日は東南の強風の天候で、強風にあおられたため宿場一帯と漁師町の一部は火の海と化し、脱走兵はちりぢりになって敗走していった。
 
この戦火の被害はひどく、五日市で221軒、九日市で562軒の家が焼失させられてしまった。

海神の戦闘

市川・船橋戦争の最後の戦闘は、3日午後に海神で起こった。行徳から船橋へ向かって進撃した福岡藩兵と、中山から船橋に応援に行こうとする脱走方の江原らが市川道(佐倉道)と行徳道の分岐点付近で銃撃戦を展開したものである。この戦闘は接近戦で激しいものであったが、福岡藩の勝利に帰した。海神と西海神ではそれぞれ31軒、60軒の家が焼失する被害に遭った。
 
海神の戦闘については、幕府方隊長で後に赦されて政界に進出し、また教育者として名をなした江原鋳三郎(素六)の伝記に詳しく載っている。江原は当日の戦闘で何人かの敵兵を倒したが、海神の戦いでは股に貫通創を受けて歩けなくなり、当初は従者と付近の民家や山林下の横穴に潜伏し、その後は一人で村人の世話を受けながら潜伏を続け、1か月ほど後にやっと江戸へ潜入した。

戦争の影響

市川・船橋戦争は戊辰戦争全体からすれば局地戦にすぎないが、房総の歴史においては大きな転機となった。それまで、表面上は新政府方・旧幕府方いずれへも協力の姿勢を示していた多くの中小藩が、この戦争を契機に完全に新政府寄りに転じたからである。まさにこの戦争が、近世から近代へ脱皮する大手術の役目を果たしたのである。
 
現在、戦争の遺跡はわずかに残る戦死者の墓のみで、船橋市では海神念仏堂・宮本了源寺・慈雲寺・華輪霊園・上山町法宣庵・馬込町安立庵跡・旭町共同墓地の7ヶ所(馬込沢共同墓地の脱走方墓は墓地移転の際不明となる)。市川市では八幡東昌寺(中山法華経寺の脱走方墓は行方不明)。鎌ケ谷市では鎌ヶ谷大仏墓地に残されている。
 
戦死者は官軍方はほぼ氏名が分かるが、脱走方は氏名不詳のものが多くまた人数の確定も難しい。大山柏著『戊辰役戦史』には、官軍方死者は12人で、義軍府側(脱走方)は不明とある。一方、市川市板橋家文書によれば、賊軍(脱走方)は20人、夫人足(村人)は4人であるという。

江原素六の後日譚

立身出世を遂げた江原は、後年船橋の佐渡屋旅館に、世話になった旧山野村の名主石井某・藤田某・鶴岡某・三須某の4人を招き「報恩ノ宴ヲ張」ったという(沼津市明治史料館蔵の江原子息の覚え書による)。
 
國々大名御固附記
戊辰戦争のかわら版(「國々御大名御固附記」)

掲載日 令和3年3月15日 更新日 令和3年3月21日